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水無瀬離宮(水無瀬殿)関連地域の発掘調査に関する要望書

水無瀬離宮(水無瀬殿)関連地域の発掘調査に関する要望書 published on

 現在高層マンションの建設計画が進められている旧関西電力社宅地は、水無瀬離宮(水無瀬殿)の新御所跡に推定されている。水無瀬離宮はかつて後鳥羽上皇により造営された政治と文化の拠点である。後鳥羽上皇が近臣と共に起こした承久の乱(承久3年(1221))は、朝廷方の敗北に終わり、武士の世の到来を決定付けた日本史上の転換点として知られる。一方で、後鳥羽上皇の文化人としての側面は高く評価され、『新古今和歌集』の撰集などは後世にまで大きな影響を与えたとされる。
 水無瀬離宮は単なる後鳥羽上皇の別荘地ではなく、官人の任命などの重要な国政上の決定や様々な儀礼が行われると同時に、多様な武芸や芸能が行われる場でもあった。加えて、天皇が平安京から出ることが極めて少なかった当時において、順徳天皇が水無瀬に行幸したことも当該地の重要性を示す。
 新御所跡は、水無瀬殿本御所が建保4年(1216)の洪水により流された後に造営された。この新御所跡については、これまで残存する指図や文献史料の記載から復元がなされており、本格的な発掘調査を実施することで、遺構が発見される可能性は十分に残されている。しかしながら、高層マンションが建設されると、地下に遺構がある場合、建設工事による破壊は免れない。これらの事情に鑑みれば、試掘や部分的な発掘ではなく、全面的な発掘調査が必須である。
 また、水無瀬地域は新御所など複数の御所が造営された中核地域だけでなく、後鳥羽上皇の御願寺である蓮華寿院や、皇族や近臣の宿所などを含む都市領域としての観点からも注目されている。そのため今後も局地的な実態調査ではなく、地域としての研究調査が必須である。
 以上の点から、離宮新御所跡推定地である旧関西電力社宅地の全面的な発掘調査及び、水無瀬離宮関連地域における慎重な調査の実施を強く要望する。

二〇二四年五月十八日          日本史研究会
大阪府知事       吉村洋文殿
大阪府教育委員会教育長 水野達朗殿
島本町長        山田紘平殿
島本町教育委員会教育長 横山寛殿